浄土真宗に、「自利利他」の四字成句がある。自利とは自らが努力することによって功徳を得ることであり、利他とは、その功徳を他の人々の救済のために使いつくすことである。建設の仕事は、多分に人々に幸せをもたらす利他の善行であり、その建設の力を以って善行を施した高潔の士には、枚挙のいとまがないほどである。
その高潔の士の一人に、八田與一(1986:明治19年―1942:昭和17年)を挙げる。
大正時代、日本領だった台湾で、広大な嘉南平野を美田にしようと尽力して、成功した土木技術者である。
司馬遼太郎「街道をゆく40台湾紀行」(朝日文庫2009年)が、彼を取り上げている。
司馬遼太郎は、褒め上手な人である。その彼をして、八田を最高の賛辞で称えている。“八田は金沢の人である。四高を経て東京帝大工科大学土木工学科を卒業し、1910(明治43)年台湾総督府土木部技手を拝命した。”1917(大正6)年、同郷の外代樹と結婚し、二男六女に恵まれた。
先輩の技術者について桃園の上水事業のなどの計画や設計などの仕事従事した後、嘉南の不毛地帯に目を止めた。
”嘉義から台南までの嘉南平野は、まことに広々とした一望の平野に見え、大陸に来たかと思わせるほどであった。だが、この大平野は、二十世紀のある時期までは、大規模な水利事業を行った形跡はなく、不毛の大地であった。”
不毛のままに放置されていた理由は、河川の数が少なすぎ、利水の便に乏しいことにあった。
八田が嘉南平野の調査を始めるのは32歳のとき、1918(大正7)年だった。
“彼が構想した灌漑面積は、東京都23区の約2倍、香川県の面積に匹敵する膨大なものだった。”
“小渓流の官田渓に目をつけて、その上流の烏山頭にダムを作り、烏山嶺の向こう側を流れる水勢が盛んな曾文渓の水流を導いて貯水しようとした。
”烏山嶺をくりぬいた隧道は3,078㍍に及んだ。ダムが堰き止める1億5千万トンの水の規模は、アメリカのフーバーダムが完成する1936(昭和11)年まで、世界一だったそうだ。
ダム本体は“粘土、砂、礫、栗石、玉石を組み合わせた” フィルタタイプである。“灌漑のために、導水路や水門、発電用の沈砂池、用水路がわかれるごとに、分水施設などさまざまな土木を施す必要があった。
日本史上、空前の大工事に” なった。“1920(大正9)年、この工事の着工が決まり、組合が作られた。同時に八田は、台湾総督府技師から民間団体の台南州嘉南大水利組合の技師になった。”
彼は官職の出世主義に背を向け、栄進の道を自ら絶ったのである。彼の出色なところは、通常の公務員のキャリアのように、たまたま受けた辞令のままに携わった仕事で手にした業績ではなく、自らの意思でその仕事に取り組んだところにある。工事は10年後の1930(昭和5)年に完成した。
“台北在住の謝新発の著作「八田與一伝」に八田の銅像の写真が出ている。
銅像は、作業ズボンをはき、腰をおろして見つめる視線の先に、彼が台湾人とともにつくった烏山頭の珊瑚潭が広がっている。”
烏山頭水庫に貯えられた水が、嘉南平野に配られるのである。
因みに、ダムを中国語では水庫という。
嘉南平野を縦横に巡っている水路は16,000キロ、2,700キロの万里長城を遥かに凌駕する。
“この巨大な水利構造は、当時も今も、嘉南大圳と呼ばれる水の長城である。“
八田は、大戦の最中、1942(昭和17)年、陸軍に徴用されてフィリピンにむかったが、その途中、乗船が米潜水艦の攻撃を受けて撃沈され死んだ。享年56歳だった。
八田の妻、外代樹は、櫂潤「八田外代樹の生涯」(拓殖書房新社2017年)に詳しい。よく出来た人物で、烏山頭に銅像が建てられているほど、今なお、現地の人々に慕われているのである。
彼女は3年後、烏山頭の自宅で敗戦を迎えた。日本人はことごとく、台湾を去らねばならなくなった。台湾を安住の地と考えていた外代樹は、大きなショックを受けた。
台湾は結婚した土地で、8人の子を育てた、そして、何よりも目の前に夫の血と汗の結晶である嘉南大圳が広がっており、そんな土地が大好きだった。離れたくはなかった。
“その年の9月1日未明、外代樹は、八田家の家紋入りの和服に身を包んで、遺児たちに「大きくなったのだから仲良く暮らしてください」と便箋に書き残して家を出た。”
そして、夫の終生の事業だった烏山頭ダムの放水口に身を投じて、夫のあとを追ったのだった。享年45歳。この日は25年前、嘉南大圳が起工された日だった。今、八田與一と妻外代樹は、ともに珊瑚潭を見下ろす丘の上の墓に眠っている。
八田の銅像は、この工事に参加した人々の発意と拠金によって1931(昭和6)年に珊瑚潭のほとりに据えられた。”
“大東亜戦争末期、金属回収の命令で撤去された。しばらくの間、その所在は不明だったが、戦後になって、付近の倉庫に放置されているのが見つかった。”住民たちは、これを烏山頭に持ち帰った。そして、元あった珊瑚潭のほとりの場所に据えたいと思った。
“だが、蒋介石総統時代のその当時、この銅像を元の場所に据えることは憚られた。時代が変わって、蒋経国時代の1981年になって、ようやく、元の珊瑚漂のほとりに据えられた。”
“台湾で刊行された中華民族傑出人物の伝記集である「台湾名人伝」によると、八田も中華民族の一員になっている” らしい。
八田の命日の5月8日には、毎年、嘉南農田水利会の人々によって、墓前祭が営まれているそうだ。故人は国籍・民族を超えた存在になっているのである。そこまで、彼の生涯が台湾に役立っていたとなれば、八田の霊も瞑目することだろう。
八田與一の生涯と業績は、古川勝「台湾を愛した日本人」(創風社出版2009年)に詳しい。そのあとがきの中で、古川は書いている。
“かつて、自分が台湾に住んでいたころ、あるとき、台湾人から「あなたは日本人だから、日本精神を持っていますよね」と言われたことがある。
「日本精神? なんのことですか」と聞き返すと「日本精神はね、『嘘をつかない』『不正な金は受け取らない』『失敗しても他人のせいにしない』『与えられた仕事に最善を尽くす』この四つですよ。日本は、私たちに良い教育をしてくれました。今日の台湾の発展はこの日本精神のおかげですよ」と語ったそうだ。話を聞いて、私は、返すべき言葉を失った。” と言う。
“戦前の日本人は決して豊かではなかったが、精神的な強さを持っていた。公に奉仕する精神を持って学問に励んだ若者も多くいた。何よりも誇りを持った日本人が多くいたように思う。” 台湾には、そのように懐かしむ人たちがいる、ということである。
八田與一も、そのような高潔の士として、地元の人々から畏敬の念を以って遇された人物だったのだろう。
それにしても“八田與一への恩と感謝を忘れることなく銅像と墓を守り続ける嘉南の人々の姿には、胸が熱くなる。”
渡辺利夫「台湾を築いた明治の日本人」(産経NF 文庫2021年)によれば“八田の生まれ育った加賀国、金沢は浄土真宗の最も盛んなところで、その八田の台湾の地、嘉南大圳での献身的な行動と思想のなかには、金沢に漂う浄土真宗の宗教性がしみ込んでいたのであろう。” と記している。
この「利他」の精神の持ち主の高潔の士が、大戦下の最中とは言え、非業の死で人生を閉じたことは、まことに哀しい限りだ。
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