建設物価調査会

【建設時評】文芸に見る建設と炭鉱

【建設時評】文芸に見る建設と炭鉱

早稲田大学理工学研究所 招聘研究員
一般社団法人全国土木施工管理技士会連合会 顧問
小林康昭

 今は見る影もないが、60年前までの炭鉱は、わが国の産業界の枢要な地位を占めていた。


 わが国の炭鉱の鉱脈はことごとく、深い層に分布していたので、地表から鉱脈まで坑道を掘り進んで、鉱脈に着炭したところから石炭を採掘して地上に運び上げていた。


 そこで、鉱脈の中を掘り進みながら石炭を採掘する作業と、着炭するまで土や岩石の中の坑道を掘り進む作業に大別された。前者は炭鉱会社直傭の炭鉱夫たちの仕事であり、後者は炭鉱会社から炭鉱インフラ整備を請け負った建設会社が土木作業員を使って行う仕事だった。加えて、職員や炭鉱夫とその家族たちが住む住宅の建築と営繕を、建設会社の建築作業員が担っていた。炭鉱には土木や建築の作業員を抱えた建設会社が常駐し、炭鉱の仕事とはなじみ深い関係にあった。

 

 だが、建設と炭鉱の、そのなじみ深い関係に触れた著作は、管見の限り、中村亨一「海の上の建築革命」忘羊社(2020)だけである。触れている炭鉱は端島である。今では、正式な名称の端島よりも、軍艦島の俗称のほうが人口に膾炙されている。端島は、九州西端の長崎半島とも称される野母半島の沖合に浮かぶ高島の鼻先に浮かぶ小島である。高島には明治前から海底に拡がる石炭を採掘していた炭鉱があった。“その高島炭鉱は、1880年代中頃に岩崎弥太郎率いる三菱が採炭に乗り出して以降、近代炭鉱発祥の地となって、三菱全体を支える存在” になっていた。


 “その高島の南西の沖合にある端島は当初、高島炭鉱の支鉱として位置づけられていた。”


 “当時の端島の採炭関連の建造物や居住施設を記録する資料はほとんどないが、石炭採掘特許願の添付図面では、木造板葺き平屋を確認できる、” とある。職員や炭鉱夫の“既婚者と未婚者は別々の棟で生活している。既婚者は4坪(13㎡)の広さで個別に仕切られた長屋形式の建物で居住しており、未婚者は共同で生活しており、その建物は50人から150人が共に居住が出来る。建物どうしは少し距離を置いて建てられている。”


 “端島に暮らしていた労働者の数を採炭量から推定すると、1891(明治24)年当時約475人、1893(明治26)年当時1200人を超えた。加えて、建設工事などの労働者や賄い関係、そこに家族を加えると1500~1600人程度の島民が生活する炭鉱町に成長を遂げていたと推察される。”


 “端島では第二竪坑の開削に着手し、居住区は島の西側2㌶ほどの強い勾配の斜面地を利用していたが、㌶当たり700人~800人という高密ぶりだった。”


 “端島炭鉱で働く炭鉱夫や職員とその家族たちが急激に増え、労働者の生活を支える施設も必要になった。1893(明治26)年に、三菱社立の尋常小学校が高台に設置された。”


 “端島の出炭量が、1897(明治30)年に本坑の高島炭鉱を抜いた。以後、端島炭鉱は長崎周辺の主要鉱として推移していった。”


 “1897(明治30)年頃までには第二、第三竪坑から南西側が埋め立てによって拡張され、居住区も拡張された。住宅数が29棟から34棟に増えて、住宅は造成が簡単で効率が良い配置が可能になるように、等高線に沿って建てられ、高い部分には職員が、低地には炭鉱夫や土木関係者が居住した。”


 “正確な記録に基づく人数は1899(明治32)年当時、職工と炭鉱夫で計1382人、出炭量は年8万7195㌧、職工を含む労働者一人当たりの採炭量は年63.1㌧だった。”


 “1921(大正10)年に地元長崎日日新聞が、高層建築群を擁するその島影を、軍艦「土佐」に似ていると報じて、以来、いつしか端島は、「軍艦島」と呼ばれるように” なった。記録によると、端島炭鉱で働く炭鉱夫や職員とその家族たちは“最盛期の1960(昭和35)年には5,267人が暮し、その人口密度は83,600人/km2と、当時の東京の約9倍になり、日本一の人口密度といわれた。


 ”端島には、炭鉱施設・住宅のほか、村役場の支所、小中学校、店舗、病院、寺院、映画館、理髪店、美容院、パチンコ店、雀荘、スナック等があり、“島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。”


 “以降、1974(昭和49)年の閉山まで操業を続けてきた。”


 閉山後に“端島は2015(平成27)年、ユネスコの世界遺産に登録された。”

 著者の中村は、博士の学位を持つ建築史の専門家である。中村が端島に向けた関心は、端島に施された建築物の先進性にあった。建築技術の近代性を図る物差しに、ル・コルビュジェが提唱した「近代建築五原則」がある。これはコルビュジェが手がけたクック邸の実例とともに1926年に提唱された。
“そこには五つのポイントが記されている。
1. ピロティは建築全体を地上から持ち上げる。
2. 自由な平面は、耐力柱を間仕切り壁から分離させて達成される。
3. 自由な正面は、自由な平面の垂直面への必然的投影である。
4. 横長引き違い窓、または、水平窓が取り付けられる。
5. 屋上庭園は建築が占める地上の面積を取り戻すことにある。”
その提唱がなされる前に、端島ではその提唱に合致した建築が実現していた事実がある。

 “端島では、1913(大正2)年に、混構造の木造5階、床コンクリート造りの旧14号館が建設された。周囲の木造寄棟の建築に囲まれて、突然、モダニズム建築と見まごうような建築が出現した感がある。屋上に庭園を有していたが、当時の国内ではおそらく前例がなかった。”当時の端島の先進性が分かる。


 その象徴が、30号館と称された建物だった。コルビュジェの提唱に先立つ10年前の1916年に建設された日本初の鉄筋コンクリート造りの4階建て高層集合住宅(後に7階建てに増築)だった。


“労働者の共同住宅として建設された30号館は、コストを極限まで絞り込み、資材搬入を最小限にとどめた結果、当時、欧州で勃興していた合理主義的なモダニズムの条件を備えた建築になった。”


 これ以降の社宅建築が“鉄筋コンクリート造による骨格と、内部の床・壁等が明確に分離されたスケルトン・インフィール工法へと昇華したのは、コストのみならず維持管理・寿命まで考慮した計画がなされた証しであり、コルビュジェによる近代建築5原則の提唱に先立つ10年も前に、端島で現実の建築物として具現化されていた事実を評価することは、どんなに強調しても過ぎることはない。”


 中村は自著の中で、その事実を力説するが、その一方で、案じてもいる。“小山秀をはじめとするエンジニア・アーキテクトたちの遺した功績は今後、正当な評価を得ていくだろうか。建設に携わった職人たちはどうだろうか。建築遺構においては、建物の評価と同時にそこに秘められた技術や、背景となった歴史や思想に対する評価も必要” であろう。

 中村は“端島の30号館及びそのほかの社宅の調査や3D・CGを制作し、建築計画の水準は相当に高い、との評価を与えている。


 具体的に列記すると、①平面計画:炭鉱労働者の起居様式(従来の生活)が維持できる。内部空間の隅々まで有効利用されている。②断面計画:①の目的のための床段差の設定やフラットではないコンクリート床レベルの調整。コンクリート技術との合せ技であり難易度が高い。③設備計画:厨房内竈の多層階を共有する排気筒(シャフト)の計画。これも難易度が高い。④内部吹き抜けによる外部採光の有効活用。⑤海水を利用した水洗トイレや共同の流し場による衛生環境の確保。⑥古い住宅の建具類を職人が再利用した生活様式の維持。調湿・通風・喚起にも有効。などが挙げられる” が、これらは“土木・鉱山系の技師だけの発案は困難だったと思う。そこには三菱地所の建築家の介在や三菱の経営陣の後押しも、当然必要だった。”

 長崎に滞在中、船で沖に出て軍艦島を遠望したことがある。廃墟になって、荒れるがままに放置された軍艦島の姿は痛々しかった。だが、陽が落ちて、闇夜の洋上に浮かび上がった残影は、流石に雄々しかった。



建設物価2024年4月号

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