人口減少の時代である。地方では地域の存続のために「選ばれる街」になるよう、様々な戦略を打ち出し始めている。その主流とも言えるのが「交流人口」とか「関係人口」などと言われる人を増やし、ひいては「移住者」を増やしていくという生き残り戦略であろう。多くの自治体が取り組み始めている現代的課題である。この戦略が確実に奏効するためには、まずは地元の若者が地元に残って活き活きと活躍できる環境や、他所者を快く迎え、一緒にやれる寛容さが必須であろう。特に未来を担う若者に「選ばれる街」となることはとても大切だと思う。
その上で、こうした人の動きと表裏一体となるのが、不動産投資だ。交流人口を増やす上でも、移住者を増やす上でもコワーキングスペースや短期から長期の住まい、そして店舗、オフィスなど移住者による新しい事業などの受け皿も必要となるだろう。こうした不動産投資は、当然ながら移住者も元々地元の若者も含めて、そこで住まい稼ぐ人々の家賃負担力を基軸にして実施されなければ投資回収ができなくなる。原資が税金であろうが、民間であろうが全く同じことである。小欄で何度か触れているように需要サイドから適切に積み上げて投資は行われなければならないのだ。
そうしたことから、現代的には地方の中心市街地で多く見られる空き家や空き店舗は、地域の深刻な問題である一方で、地域のポテンシャルでもあるのだ。なぜなら、新築に比べれば、空き家や空き店舗ははるかに少額の投資で現代的に使えるようになるからである。建築費の高騰する昨今においてはなおさらである。それなりにリスクを抱える新規事業において、初期投資が小さくて済むというのは、極めて重要なメリットなのである。中心街のほとんどすべての建物を失い空き家も空き店舗もない宮城県女川町、残った建物があるにもかかわらず、長期の避難を余儀なくされ傷みが進んだために公費解体が進む福島県双葉町のどちらの復興も手伝っている身としては、空き家や空き店舗のある街はうらやましくさえ思える。
地方における「選ばれる街」という言葉は、基本的に、「関係人口」や「移住者」といった「人に選ばれる」という意味で使われることが多い様に思うが、資本力の乏しい地域では、地域外からの投資を呼び込む、つまりは投資家(域外企業や機関投資家を含む)に投資先として「選ばれる」ことも必要になってくるだろう。しかし、投資家に「選ばれる街」は、2つの危険性を孕んでいる。
一つは、地域経済の弱体化である。地域内の資本が稼いだのであれば、その稼いだ金の多くはその地域での消費に回るはずであるが、チェーン店にせよ、企業の支店・営業所にせよ、その街が選ばれて投資が行われたとしても、その企業の経済活動の利益はかなりの部分、本社に移転することになり、その地域の経済循環の外に出ていってしまう。地域外資本に依存することは、地域の経済循環を弱める効果もあるのだ。もちろん、規模の経済による経営効率性、生み出される雇用など日本社会全体や地域にとってのメリットもあるので、軽々しいことは言うべきではないが、少なくとも経済循環の観点からは、なるべく地元資本であることが、地域経済にとっては良いことなのである。
もう一つは、その地域の魅力や価値の毀損である。これは「選ばれる街」となるための戦略が奏効しつつある街で起こりうる危険性である。例えば、とある温泉街では、地元の総意で長年景観まちづくりに取り組み、美しい佇まいが形成され、その結果、一層集客力のある観光地となっていった。そこにインバウンド観光客が多く訪れる様になると、突如、地域外資本どころか外国資本が、土産物屋など短期的な利益を求めて、その温泉街に投資を行うと言うことが起きた。外国資本にとっては、5年程度内に投資回収できればその後の温泉街の魅力や価値はどうでも良いために、自分だけが儲かるように、せっかくの佇まいを毀損するような下品な店構えの店舗が少なからず出店し、地元資本との間で強い軋轢を生む結果になった。現時点で、ずいぶん良くなったとは聞いているが、そこまで戻すのにも、相当の苦労を要したとも聞く。まちづくりがうまくいけば行くほど、こうしたハイエナ的な投資が起こりうるのである。作り上げてきた価値が毀損されるくらいなら、地域外資本からの投資はない方が良い。そして、魅力ある佇まいを形成できたのであれば、適切に景観法に基づく景観計画を策定し、その魅力ある佇まいをより良くする様な事業でなければ、建築や改修ができない様に強い予防措置を取らなければ、いつハイエナがくるかわからないのだ。
規制・誘導による供給側に働きかけるまちづくりは拡大時代の方法で、人口減少の時代は都市計画法や景観法に代表されるような規制・誘導は役に立たず、需要側つまりは関係人口や移住者、そして地元の若者の新規事業のための施設や住宅需要からまちづくりを考えるべきだと、小欄でも何度も述べてきた。しかし、そうは言っても、こうしたハイエナの予防には、地元の皆で作り上げてきた魅力に基づく景観規制が極めて効果的なのである。
地方都市などで景観計画や都市計画の策定や運用に関わると、必ずといっていいほど、「規制はない方が、投資が進む」と言う意見を多く耳にする。実は、これは成長時代つまりは「昭和の呪縛」ではないかとも思っている。成長時代はその街がどのような長所や魅力を伸ばして発展していくか、予想しづらかったために、規制があったとしても、その将来像に合致しない可能性があった。「飴と鞭」(小欄2023年12月号)で述べたように、激増する需要に供給を追いつかせるために「甘い規制」にしたと言う側面の他に、どの様に発展するか不確実性を伴っているから「甘い規制」にして、街の発展がどう転んでも齟齬が起きづらい様にしていたと言う側面もあるのかもしれない。
そもそも、そうした成長時代においても、いわゆる「共有地の悲劇」は起こり得たわけだから、「規制はない方が、投資が進む」と言うのは、どれだけ成長していようが正しくない言説である。自分が自分の好き勝手に建物を建てられると言うことは、隣の敷地も他人が好き勝手に建物を建てられると言うことなのだから、それを是とする投資家はあまり賢い投資家とは言えないだろう。
さらに人口減少の時代である。先述の例の通り現代的なまちづくりはうまくいけば行くほど、ハイエナに狙われるリスクを抱える。その予防策として規制は必須なのだ。投資されることそのものは善ではない。その街の生き残り戦略に合致する投資こそが善であり、その魅力を毀損する投資は害悪でしかないのだ。規制は、その街の生き残り戦略に賛同・協力的な投資家に絞り込む、重要なフィルターの役割を果たすのである。
さらに、その街が存続するかどうかと言うリスクを抱えている状態にも関わらず、その街の生き残り戦略や将来ビジョンがよくわからず、その実現のために適切な規制もなされていない街に、投資家が腰を据えた長期の投資を実行する判断をするだろうか?
残念ながら筆者には投資余力なるものは皆無(むしろ借金漬け)であるが、筆者が投資家だったら、そんなハイリスクな投資はせず、明確な戦略や将来ビジョンが示され、それを実現するための規制が行われている街をいくつも見て、この街で、この戦略なら生き延びるだろうと思える街を選び、その戦略の応援がてら、腰を据えた長期の投資をして少し儲けさせてもらおうという気持ちになる様に思う。学者なのに主観的肌感覚で恐縮だが、これからの時代、生き残り戦略に合致した「適切な規制があればあるほど、善良な投資が進む」のではないかと思っている。
もちろん、地元住民が住宅を建てる際に、強い足枷になる様な規制については配慮が必要であることは強く付言しておく。住宅も街並みや街の魅力を作る大切な存在である以上、住宅に対する規制のあり方や補助のあり方はケースバイケースで一概には言えない。
こんなことを思いつつ地方都市を訪れると、最近改装を施したと思われる小洒落たお店で、店主と思しき若者が楽しげに働く姿を多く見られる街が確実に増えてきた実感がある。そんな街は、本当にキラキラ輝いて見える。その一方で、時が止まったままの街も多い。もうすでに、生き残る街の「神の見えざる手」による選別が始まってしまっているのかもしれない。
景観とはその街の内面の表出である。街の内面である「人の営み」が輝かない街が、未来に向かって輝くことは絶対にない。
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