わが国の歴史で最も大きなまちづくりは、江戸である。今から五百年前の江戸は、入江の畔に藁葺きの民家が点在する小さな漁師町だった。その僻地を、徳川家康が世界の大都会に仕上げる道を拓いた。江戸のまちづくりを描いた数多から、門井慶喜の「家康、江戸を建てる」(祥伝社文庫)と「徳川家康の江戸プロジェクト」(祥伝社新書)を挙げる。
“天正十八年(1590)年夏、秀吉は相州石垣山の頂にのぼり、放尿をはじめた。眼下に小田原城をながめつつ、”
“「御覧なされ」と家康へ上機嫌で告げた。「あの城はあわれ、我らの軍門にくだるのじゃ。気味よし、気味よし」
家康は横で放尿につき合いながら「気味よし、気味よし」”
“「されば家康殿、この度の戦が済み次第、貴殿には北条家の旧領である関東八か国をそっくり差し上げよう。」” その代わり、あんたの所領を全部貰う、家康は即答し得ず、沈黙を余儀なくされた。
“いったん駿府城にかえり、家臣たちに意見を求めた。” “ 家臣たちは「断固拒否すべし」と猛反対した。ある者は「表向き小田原征伐の功に報いると見せかけて、実は本領の地から引き剥がすのが目的。関白様は狡猾じゃ」と憤慨の余り涙を落した。”
“家康はこういうときは引く男だ。十分耳を傾けた上、はっきり「わしは、この国替えに応じようと思う」” “ 家臣一統、驚愕したが、家康は笑みを浮かべて「他ならぬ関白さまのお話じゃからのう。断るとあとが怖いわ。それに関東という土地は、なかなか望みがあるような」” “ ――殿、ご乱心。誰もがそう確信した。” “「お主らの危惧、良く分かる。ここは初志を貫かせてくれぬか」結局、家康は我意を通した。
石垣山の陣中に戻り、秀吉の前に参上して「国替えのお沙汰、あり難くお受けつかまつる」「そりゃまことか」
秀吉は小躍りを始めた。じゃま者を僻地に追い払ったことが、よほどうれしかったのであろう。” “「で、入部先はどこかな」どの城に入るのか、と聞いている。
小田原か、鎌倉か” “だが、家康の口から出た地名は「江戸」
秀吉は小躍りを止めて目をぱちくりさせた。まわりの者もあっけに取られている。”
“何本もの川が流れ込んだ泥地の茫々たる茅原に取り巻かれた江戸城は、百年以上も前、太田道灌が根拠地としたこともあったが、今はただの田舎陣屋にすぎなかった。
秀吉は「まあ、それが徳川殿のご意志なら」反対する理由もなかったのだろう。”
“小田原落城から間もない八朔(八月一日)、家康は江戸に足を踏み入れた。” “ 家康は呆然と(わしは確かに乱心しておったかもしれぬ)。
城は想像以上にお粗末だった。「まるで荒れ寺のようじゃ。のう?」家康は背後の重臣たちへ呼びかけた。” “ 本多忠勝がすすみ出て「それがしに普請お申し付けくだされ」「いや、それがしに」押しのけるように土井利勝が前に出た。そこへ井伊直政が割って入った。”
“家康はたしなめるように「あとでよい」”“「いま必要なのは城内の地ならしではない。江戸そのものの地ならしじゃ。城など、あと、あと」” “ 家臣たちが顔を見合わせた。”
“江戸城の東と南は海である。西側は萱原。北は多少ひらけて農家が僅かに並んでいる。発展をわすれたような集落でしかなかった。”“家康は、途方もないことを言った。「ここを、大坂にしたい」家臣たちは泣き笑いの表情になった。(ありえない)と思ったのだろう。”
“家康は家臣たちを見まわしつつ「江戸の地ならしを差配すべきは伊奈忠次。まかり出よ」
蚊の鳴くような返事とともに、小男がひとり。「伊奈忠次、御前に」「そのほうに命じるのは、江戸の街そのものを築く基礎づくりじゃ。城ひとつ建てるより遥かに困難な、だが、遥かに名誉な仕事である。よろこんで受けよ」「ご指名とあれば」”
“伊奈忠次は四十一歳。若者のように声をふるわせて「江戸には、北から何本もの川が流れこんでいて、これが江戸を泥地にしています。これを何とかしないことには」” “ 忠次は更にか細い声で「小さな堤は幾つ盛ろうと、所詮一時逃れにすぎませぬ。根本的な解決のためには、後背の地に目を向けねば」「後背の地?」「北に広がる、広大な原野です」” 関東平野のことを言っている。“「つまり、どうなのだ」伊奈忠次は、この時ばかりは明瞭に「川そのものを曲げまする。江戸に流れ込む前に」誰よりも雄大な意見を述べた。”
伊奈忠次は活動を開始した。“二年かけて関東平野をくまなく歩いたあげく「やはり、利根川じゃな」”
なぜ利根川なのか。この関東には他に無数の川があるのに。“「利根川こそが、江戸の地を水浸しにしているのだ。流量が多く、江戸湊(東京湾)に注ぐ河口が広すぎるからだ」”利根川は水上の山深くから初めは南東へ、やがて南へ流れて江戸湊に注いでいた。
“河口は江戸城の北東、関屋(足立区千住関屋町付近)にある。一面湿地となり、人の歩みも拒み、米も実らぬ畑にもならぬ。江戸で雨が降らずとも、北で降れば手のつけられぬ水が押し寄せる。”
ならば河口を大きく東へずらせば、江戸の土地から水が引き、人が住めるようになる。洪水の被害も小さくなる。“明快な発想だった。「川が江戸に入る前に、川そのものを東へ折って河口を上総か下総へ退けてしまう。江戸の地ならしは、極めて容易になる」
忠次の構想とは、利根川をほぼ今に見る河道にするものだった。現在の利根川は東京をかすりもせず、栗橋(埼玉県久喜市栗橋)から東流して千葉と茨城の境目を横切った挙句太平洋、鹿島灘へ注いでいる。”
締め切り工事がはじまった。
“水の流れをどう堰き止めるかだが、忠次には腹案があった。信玄堤の工法を、ふめばよい。具体的には聖牛(ひじりうし)を使う。丸太を組んで三角錐の枠を作る。これへ石を詰めた竹籠を入れて川に沈めると、水面に突出した部分が牛の角に見えるので聖牛の名があるという。
その聖牛を幾つも沈めて水流を制御し、玉石や割り石を積んでいく。時には石を満載した舟を沈めて舟ごと堰材にしたこともあった。” 南への流れは締め切られた。
関東平野には、利根川の更に東を渡良瀬川が南北に流れていた。忠次の構想は、利根川を東へ曲げて、渡良瀬川へ合流させてしまうものだった。利根川の中下流は廃川となって河口は干上がり、江戸の可住面積が大きく広がる。そのかわり、渡良瀬川の河口には大河二本分の膨大な水が殺到する。
家康は関八州の代官に伊奈忠次を充てて、直轄地を保轄させた。
“利根川・渡良瀬川の合流工事が始まったのは江戸幕府開府数年後だった。利根川を締め切り、新たに拓いた水路へ導く。水路は緩やかにカーブしつつ渡良瀬川に引き込まれた。” “ 川筋が離合集散を繰返し、合流点辺りに広がった流域は完全に水没した。
堤防で固めるより、遊水地としてしまうほうが大雨のとき水の溜り場所になる。大水は下流に及ばず、江戸は安泰だ。” “ 堤防の力を過信しない自然に逆らわぬ工法は、いつしか、伊奈流などと呼ばれて評判を得るようになった。利根川・渡良瀬川の合流工事は1621(元和七)年に完成し、締め切りに手をつけてから二十七年経っていた。” “ 関屋の河口はなくなって他に水源を得てほっそりと東京湾に注いでいる。江戸城東部を南流する細い流れは隅田川と呼ばれることになる。”
この利根川東遷事業に併せて、幕府は入江沿岸を埋め立てた。その時まで、日比谷、丸の内、葛飾などの下町は海だったのだ。さらに神田、玉川、千川などの上水道敷設事業などを行って、江戸の街を仕上げていった。
“江戸随一の歓楽街吉原、広重の描いた納涼花火の両国橋、明治から昭和にかけて永井荷風が好んだ墨東の辻々”。現代の東京につながる江戸の街は、伊奈流の工事が基礎となって、天下普請による日本全国の労働力の結集で出来上がったのである。
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