世の中には、ちゃんとやるのが当たり前で、ちゃんとやっても褒められることは一切ないにも関わらず、一旦ミスをするとものすごく怒られるという種類の仕事がかなりある。日本語だと適切な言い回しは思い当たらないが、英語だと「Thankless job(感謝されない仕事)」と言うらしい。経理処理は、そうした仕事の代表格だろうか。経理処理は、出入金を管理・記録・実行するという、会社や組織の運営のためには要の一つの仕事であるのだが、ちゃんとやっても褒められず、ミスをする確率はゼロにはならないので、期待値的には必ず「怒られる」という業務になってしまっている。
本誌「建設物価」を手に取っている読者諸氏が、今まさにやっているであろう「積算業務」も同様かもしれない。単価や数量を一桁間違えて入れてしまったとすれば大問題であるし、単価を9,600円のところを6,900円と入力してしまうだけでも、数量次第でかなりの問題になる。責任重大である。しかし、ミスなく積算をしても当たり前すぎて誰も褒めてはくれない。30年以上前に筆者は現場の行政官だったので、何度も工事の当初や変更の積算を行っていたが、かなり苦痛な仕事だった。ミスをしても、設計図書の決裁中に気づいて貰えばまだラッキーな方で(決裁欄にある全員から怒られるが)、そのまま工事を行い、翌年に会計検査院から指摘を受けるようなことがあっては、一大事となるからである。積算は工事の段取りを組み立てていく仕事でもあると気づいてからは随分楽しくなったが、それでも重く面倒な仕事だった。
行政から大学に籍を移して以降は、そうした「Thankless job」とは基本的には無縁な職務となったが、それでも、例えば入試関連の業務はまさにそれであり、「Thankless job」とはなかなか無縁ではいられない。世の中に、そういう仕事は存外に多いということであろう。
我々、土木技術者が扱う社会基盤施設もさまざまな側面がもちろんあるが、「Thanklessjob」の性質も持っている。社会基盤施設を英語では「infrastructure」と言うが、これは「structure(構造)」と言う単語に「infra-(下部に広がる意味を込める接頭辞)」がついた複合語である。直訳すれば「下部構造」である。ちなみに、上部に広がる意味を込める接頭辞は「Ultra-」で、紫外線は「ultraviolet」であるのに対し、 赤外線は「infrared」となる。つまり「インフラストラクチャー」は、その名の通り社会を下支えする施設なのである。余談であるが、近年は、インフラストラクチャーの概念が広がってきており、生活に欠かせないサービスを提供するガソリンスタンド、郵便局、コンビニエンスストア等々、さらに、IT 分野では業務基幹システム、勘定系・決済系システム、Webサービス、クラウドサービス等々、SNS までが「インフラ」と呼ばれるようになってきた。そして、結局どの「インフラ」も「下支え」なので、そのありがたみを普段は全く意識されず、一旦機能が停止すると多くの人からクレームがつくと言うまさに「Thanklessシステム」となっている。これは、インフラの宿命とも思える性質の一つなのだろう。
話を土木技術者が扱う狭義のインフラに戻そう。道路、鉄道、空港・港湾、河川・海岸、電力、上水道、下水道といった土木インフラシステムの多くは、高度成長期(一般的には1955年頃から1973年のオイルショックまでの期間)に、膨大な量が整備され、日本の高度経済成長を支え続けた。その膨大な量のインフラは、須すべからく作られてから50年以上の歳月を経て、老朽化が進んでいるのである。2025年1月に起きた八潮市での道路陥没事故を引き起こした幹線下水道は、整備後たかだか40年程度であった。つまり、高度成長期に整備された膨大な量のインフラを、適切に維持管理、大規模修繕、場合によっては再整備を実施しなければ、遠くない将来にインフラが各地で悉ことごとく機能しなくなる「インフラ崩壊」の時代が来るのである。
土木学会では2012年に発生した中央自動車道笹子トンネルの天井板落下事故を契機として、様々な取り組みを開始し、2016年からは「インフラ健康診断」と称して、各インフラの維持管理状態を調査・可視化し警鐘を鳴らし続けている。
小欄2023年5月号「臆病者」で、人口減少の時代においては、新規の社会基盤施設整備は維持管理費を増大させるだけの「負の遺産」になる可能性さえあり、新規整備にもっと「臆病」になるべきで、社会基盤施設の量そのものを減らしていく必要性を指摘したが、相変わらず全国各地で「臆病者」はあまりおらず、「負の遺産」になりかねない新規社会基盤施設整備が止まる気配がない。その一方で、施設の維持管理費は圧倒的に不足しているのは当たり前で、点検費用でさえ確保するのが難しい自治体も多いと言う状況が続いている。
そうしたことの根底にあるのは、やはり小欄2022年12月号「解かい呪じゅ」で指摘した「昭和の呪縛」ではないかと思う。世論全体が未だ昭和の成長時代の成功体験を引きずり、「インフラを整備すれば企業立地が進む。」といった、需要が極めて旺盛な感覚から抜けきれていないことにあるのだろう。そうした世論が背景にあるかぎり、新規の社会基盤施設整備は有権者に評価され、政治の世界もそれに乗ることになる(もちろん政治家自身が昭和に呪縛されているケースもまだまだ多い)。その一方で、インフラを適切に維持管理し続けて正常に機能させ続けても、「Thankless システム」であるため、誰も褒めてくれず、「票」にはならないのだ。そうである限りは、適切に日本で「臆病者」が増え、新規社会基盤施設整備が減ったとしても、その分の余剰予算は維持管理方面には回されず、全く別の予算に消えていくのではないかとさえ思える。
もちろん、もしも各地で実際に「インフラ崩壊」が起こり始めたら、インフラが正常に機能していることの有り難みが痛切に理解され、「Thankless システム」は「Appreciated(感謝される)システム」になり、その思いは「票」となって政治を動かし、大胆な維持管理、修繕、再整備へと予算の使途が切り替わるのだろう。しかし、それでは手遅れなのである。かといって、そうした「インフラ崩壊」の時代が到来することを、悪徳商法がよく用いる「不安商法」や「恐怖商法」と言われるやり方で煽ったとしても、短期的には効果があっても、中長期的には行政の信頼を失うだけで得策にはならないだろう。所詮、悪徳商法のやり方である。
間接民主主義における政治の使命とは、「票」になるかならないかではなく、この国に必要な政策を着実に立案・実行すると言うもののはずだ。しかし、これはもちろん理想論としては正論であるが、現実はそう簡単ではない。社会基盤施設を担う土木技術者が、そうやって政治や市民やメディア等々、誰か他の人のせいにして溜りゅう飲いんを下げたり、責任を回避したりしたとしても、「インフラ崩壊」を確実に防ぐことにはならない。土木技術者はインフラが正常に機能することに責任を持つ専門家である。市民の不安を煽ることなく、政治や市民やメディアに働きかけながら、適切に「インフラ崩壊」を防ぐ手立てを考え続け、実行し続けるしかない。とはいえ、インフラシステムを「Thankless システム」から「Appreciated システム」へ市民の不安を煽らずに変換する良い方法はないものだろうかとつくづく思う。おそらくそれが解決の端たん緒しょとなると思えるからである。

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