建設工事を扱った文芸作品には,主人公の家庭も描かれる。代表的な作品には木本正次「黒部の太陽」信濃毎日新聞社1992や曽野綾子「無銘碑」講談社文庫1969などがある。
木本正次の「黒部の太陽」は,黒部ダム建設に関わる土木屋たちの群像劇である。
入れ替わりにAがやって来た。多田は出来るだけ快活に大声で話しかけた。「やぁ,どうだ。奥さんは元気か。子供さんたちも大きくなっただろうな」「はぁ,二人とも元気だそうですが」「正月に会って来たんだろう?」「はぁ,それが…」Aの声が途絶えた。眼に涙を湛えている。「おい,どうしたんだ君」”Aが正月休みに夫人と子供が身を寄せている夫人の実家に行った。そして,宇奈月で買った土産物や子供の玩具を持って玄関に立った。夫人の母親が出てきた。“Aが挨拶すると,母親は冷たい声で「どちらさんですか?」と答えた。「僕ですよ,Aですよ」母
親は素っ気なかった。「存じませんねぇ」「存じませんて…そんな」「いいえ,妻の臨月にも,子供が生まれても帰ってこないような人でなしは,私の家では用事はありません」
「僕は何も…」「言い訳は聞きません。帰ってください」「せめて,子供に一目でも…」「駄目です」玄関がぴしゃりと閉められた。”“「多田さん,私はどうしたらいいんでしょうか? 笑われるでしょうが,女房が好きなんです。何と言われても別れるなんて…」”多田は腕を組んで考えた。そして“「どうだ,俺が口を利いてやるから,本社に転勤したら」「それは駄目です」Aはきっぱりと答えた。「みなさんが黒部の山奥で苦労しているのを知りながら私だけが転勤など…。やはり,会社を辞めるしかありません」”みんなが知恵を絞って翻意を促したが,功を奏しなかった。送別会の翌朝,Aは仲間を現場に送り出すと,坑口から谷を見下ろした。
ここを降りたら,俺はもう二度とこの職場には戻ってくることはない。
Aは谷に向かって,声を忍ばせて泣いた。
熊井啓の「黒部の太陽 全記録」新潮文庫2009は映画化された脚本。主人公の北川は,黒部で現場勤務する関西電力の土木屋である。
“北川家の一室。岩岡(由紀の許嫁)からの手紙を読んでいる由紀(北川の長女)。岩岡の声「北川さんは,牧子さん(北川の次女)の病気が重いことに気づいていません。ひきとめて傍にいてあげるよう,お願いしま
す」
本箱から,土木の専門書や資料をカバンに積め込んでいる北川。
その北川を見つめる加代(北川の妻)。
君子(北川の三女)「もう行くの?」
北川「うむ,今夜中に戻らなきゃ…」
「おとうさん」呼ばれて振り返る北川。
立っている由紀の思いつめた眼差し。
由紀「今夜は泊まってって」
北川「いやぁ,そうもいかんのだよ」
帰り支度を続ける。見つめる由紀たち。
北川「牧子によろしく,とな」
出て行く北川の前に立ちはだかる由紀。
由紀「今夜,一晩だけ,お願い。明日の朝,もう一度,牧ちゃんに会っていって!」
はっと気づいた北川。
北川」「どうしたんだ」
由紀「お願い…」涙ぐんで顔をそらす。
北川:「由紀,何か隠しているな,お前たち」
絶望的な顔を上げる加代。
加代「あの子は,…一年と…」”
絶望的な顔を上げる加代。
加代「あの子は,…一年と…」”
白血病の牧子を,翌朝,病室に見舞う北川。眠っている牧子。会話を交わす術なく病室を出て行く北川。牧子がうっすらと目を開けて,父親の北川の背に,視線を送る。
余命幾何もない牧子は,姉の由紀の花嫁姿を見てから死にたかった。“結婚式場控室の間,鏡に映る牧子の顔。牧子が視線を移す。
入口に由紀と岩岡。牧子,微笑して見つめる。
牧子「お姉さんたち,お似合いよ…」”
由紀「…」
君子「泣いたりして何よ」
牧子「だって…,見たかったのよ,お姉さんの…」
由紀と岩岡「…」“
隧道の切羽付近。息を呑んで切羽を見詰める北川たち。スイッチが入ると,傲然炸裂するダイナマイト。一面の砂塵。硝煙。大穴の輪郭が次第に見え始める。沸き上がる歓声。“その渦を縫って事務員がやってくる。
事務員「電報です」北川に近づき,黙って渡す。一読した北川の顔から血の気が引く。
由紀の声「ゴゴ3ジ クロヨンノ カンセイヲ イノリツツ マキコ シス ユキ」
傲然と突っ立っている北川”
クロヨンの完成には,野瀬正儀の功績が大きい。彼は,戦前の日本発送電時代から,ライフワークとして調査や計画に携わってきた土木屋である。その功で,朝日賞を受賞した。
黒部ダム建設の犠牲者は171人。人それぞれに,171の人生と家庭があったのだ。
曽野綾子の「無銘碑」に登場する主人公は,建設会社の土木屋の三雲竜起。娘の梨花を,入院先の病院で喪った。
竜起が病院から現場に戻ると,辞令が出ていた。行き先はタイの高速道路の建設現場。娘を喪ったショックで妻の容子は神経を病んでいる。容子を実家に置いて単身赴任したが,容子は竜起と暮らすことに執着した。南方の明るい風土の中に居たら良くなるんじゃないか,という期待があったので,六か月経ってから竜起は,現場近くに宿舎を借り上げて,容子を呼び寄せた。そして,病んでいる容子を,優しくあたかも幼女をなだめすかすようにして,生活を共にする。
毎夜,竜起は夜十時過ぎに帰った。灯が点いていて,食事らしいものが用意されているときはほっとした。だが,大皿にたった三枚の焼海苔とか,切り身のままの生魚とか,不思議な夕食もあった。それでも,生の切り身を皿につける容子の気遣いを褒めてやった。竜起は自分で魚を煮つけるか焼くかした。
夜に,容子が家を出てさまよい歩いたり,木陰でしゃがんでいたこともあった。”
“竜起が灯の点いた我が家に帰り着いた時,台所には朝の食器類がまだ洗わずに積み上がったままだった。
「容子」竜起が呼んだ。食堂のテーブルから皿やコップを台所まで運んだことを竜起は褒めてやりたかった。”“容子は,泥まみれの裸足で立っていた。「ご飯にしよう。容子も手伝って,野菜を切ってくれるか?」容子は頷
いた。竜起は人参と玉葱を渡した。竜起は飯炊き用の釜を持って米袋の前にかがみこんだ。
その時,竜起は腰を殴られたように感じ,容子が体の上に倒れかかった。「容子,どうしたんだ?」竜起は,自分の下半身が動かないのを知った。立ち上がった容子の手から,出刃包丁が足元に落ちた。
竜起は,手を右脇の部分にあてて見た。温かく濡れたものが溢れ出していた。”
“容子。呼ぼうとしたが,声にならなかった。竜起は,床板の上に,身を横たえた。自分はすぐに楽になれる。しかし,容子には,これから長く暗い生涯が続くのだ。竜起は,
容子を不憫と思った。
目をつぶると,竜起は梨花が頬を寄せているような気がした。親子が三人,一緒になったのだ。竜起は容子を抱き寄せようとした。
しかし,その手に力が入らないうちに,竜起の意識は途絶えた。”
実際問題として建設会社では,家庭に支障がある社員を外国の現場に転勤させる人事はない筈だ。「無名碑」で描かれる主人公の境遇は,壮大なフィクションであるが故に,読者の同情と感涙を誘うのである。
それにしても,名だたる作家たちの手による土木屋の家庭は誠に厳しい。若者たちが,土木の世界に尻込みするのでは,と懸念する。現実には,幸せで明るい家庭なのだから。
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