あまり裕福ではないために、数年に一度しか家族で旅行できない家庭が、どのようにその旅行を計画・実施するか想像してみて欲しい。その家庭は、その辺のチラシに載っているレディメイドのパッケージツアーを適当に選ぶだろうか?普通に考えて(もちろん様々な「普通」がある訳だが)、そんなことは絶対ないように思う。家族皆で行きたい場所を相談して、その安い行き方を一所懸命調べて、なけなしのお金で、皆が最大限楽しめるプランを考えていくに違いない。もちろん、数年に一度の大切な家族旅行である、「たまの贅沢」も盛り込むだろう。そのためにも普段は倹約して、旅行費用を貯蓄していく。
家族旅行の計画と都市経営を同列視するのもどうかとも思うが、実は、人口減少・高齢化・低成長の時代の、特に基礎自治体の公共投資においても、このあまり裕福ではない家庭と同じようなことが起こると思っている。と言うより、すでにそうなって来ているように思う。社会基盤施設や公共建築は、その維持管理費が自治体財政を圧迫しかねない時代に突入している。税収も先細る。とはいえ、公共投資を全く行わない自治体があるとすれば、他の政策がよほど魅力的でない限り、凋落の一途を辿っていくだろう。人口減少下の生き残り合戦において「選ばれる街」となることは必須である。
数年に一度のなけなしの公共投資として、「標準設計」で良いとは誰も思わない。コスト・パフォーマンスを最大限高めるための工夫と、たまの贅沢を織り込んだ最高の設計が求められているのだ。事実、筆者の専門である土木の景観・デザイン分野の仲間内の仕事は、30年前であれば、国の直轄事業で意識高い行政官が企図した事業がほとんどであったが、今や市町村による高質な市街地空間整備のための案件がほとんどとなっている。そして、多くの自治体で、その駅前広場の再整備や中心市街地の街路リノベーションによってウォーカブルで魅力的なまちづくりを実施することで、「選ばれる街」となるべく、各地で現代的なまちづくりが進められている。
こうした公共投資のコスト・パフォーマンスを最大化するには、やや逆説的になるが、そのまちづくりが民間主導であることが必要条件となる。成長時代の都市開発であれば、いずれ成長する人口、経済を暗黙の前提とすると、多少下手な計画設計であっても、いずれ有効に利用されて来たため、供給主導の計画論、設計論が成立してしまっていた。しかし、今の時代、それをやってしまうと、下手をするとその維持管理費が財政を圧迫するだけで、富も愛着も産まないお荷物施設になりかねないのである。「経営」としては至極当たり前のことであるが、これからの時代は、需要を上手に喚起しながら、その需要にコスト的にもデザイン的にも応じた設計が求められている。供給主導から需要主導へと頭を完全に切り替える必要がある。つまり公共事業においてさえ、これからの時代は、需要側である民間事業者や市民が主役となり、その施設や空間をどのように利用するのか、活用して稼いでいくのか、そうした思いや戦略に寄り添うものでなければならない。
さらには、成長時代のような大規模投資をすべきではない現代においては、民間投資、公共投資に関係なく、小さな投資を紡ぎ合わせ、それぞれが相乗効果を持つように、上手にコーディネイトしていくことも重要となる。いわば「共鳴のデザイン」が求められているのである。先の家族旅行の例で言えば、家族皆で、どこにいくのが皆にとって楽しいか、様々な訪問先を紡ぎ合わせ、家族皆が幸せに過ごせる旅行計画としていくために、徹底的に相談していくことと同様であろう。共鳴させつつ魅力的な街にしていく。それが現代のまちづくりである。
「出来上がるデザインの水準は設計者を決めた時点で決まる」。これは筆者の師である篠原修氏の言葉である。筆者の現場での実感もその通りで、若手のデザイナーが、そのプロジェクトでぐんぐん成長していくようなことがなければ、良いデザインとなるかどうかは設計者を決めた時点で決まってしまう。現代において、公共空間をデザインする人間は、民間事業者の、そして市民という需要側の思いに寄り添い、コストを最小限とした「選ばれる街」となるようなデザインをできなければならない。そのためには、デザインの実力だけでなく、その場所の持つポテンシャルや魅力を最大限活かし、街によって異なる需要側の「思い」を形にすることができる、柔軟かつ多様なデザイン力が求められているのである。一昔前の建築家に見られるような「作家性(そのデザイナーのデザイナーとしての個性)」は、最高のコスト・パフォーマンスを求めるまちづくりにおいては、却って邪魔になる可能性さえあるのだ。筆者のまちづくりの経験においても、予算が決まっているにも関わらず、自身のために「建築作品」としての価値だけ考え、予算の増額ばかり求めてくる建築家に辟易としたことを思い出す。
では、そうした設計者はどのように選定すれば良いのだろうか。当然だが、一般競争入札などの「価格競争」で実施して、良い設計者が選ばれるはずはない。言語道断だ。設計の質を高めるための入札契約制度としては、日本においては、コンペティション(以下コンペ)とプロポーザル(以下プロポ)が代表的であろう。コンペは設計案を選ぶもので、プロポは設計者を選ぶものとして概念整理がなされている。そう考えると、現代的なまちづくりにおいて、入札契約時点で設計案が決まってしまうコンペは、よほど主導権を持つべき需要側の思いがコンペ開催前に収斂し、明確化しコンペの要項に記載できる場合を除いて、やるべきではないということになる。もちろん、そのように需要側の思いをコンペ以前に明確化できていたとしても、実際には、整備・再整備のイメージが具体化するにつれ、需要側も新たな需要を考えることができるようになり、設計者と需要者の相乗効果が発生して、使われ方も設計案も向上していくことが存外に多い。そう考えると、やはり入札契約時点で設計案が決まってしまうのは、問題があるように思う。
しかし、その一方で、プロポは、元来設計者を選ぶのであるから、その設計者の技術力を「技術提案」という形で提案してもらい、それを審査するものである。そもそも「技術提案」という名の下に、「設計提案」を求めるべき枠組みではない。ところが、実際のプロポでは、設計案と同様のものを「技術提案」させてしまう例を多く見る。そして、結局、ほとんどその技術提案という名の設計提案内容のまま設計が進む例も多く見かける。これでは設計提案の対価(設計を求める以上当然であるが雀の涙のような額の場合も多い)を払うことが増えてきたコンペでやる方が正統である。設計者を選ぶというのであれば、まちづくりの主導権を持つ需要者たちと議論しつつ白紙から設計してもらうべきである。
こうして考えると、コンペかプロポかという二項対立の発注方法という考え方そのものが現代的にはあまりそぐわないものになっているように思う。街の将来を民間事業者や市民と共に真剣に考え、その戦略や思いを収斂させ、なけなしの投資のために最高のコスト・パフォーマンスを目指した設計案を求めコンペを実施し、その場所のポテンシャルや思いをどれだけ適切に形にできるか審査をして設計者を決め、設計者が決まったら、設計案をさらに具体化する中で利用者と設計者の相乗効果によって、より使いやすく魅力ある空間へと昇華していく。それが、実現すべき設計プロセスなのだと思う。
そのために実は新しい制度は不要だと思っている。今すぐ実施すればいい。設計費を払うプロポと呼んでもいい。設計者を選定するコンペと呼んでもいい。公正な競争と適切な対価の支払いが担保されていれば、会計法上は何の問題もない。どんどん実施していけばいいのである。制度というものは、後追いで変わることのほうが多い。時代の最先端は現場にこそ存在しているのだ。
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