隧道は、外来語のトンネルの日本語である。わが国の数多のトンネルの中で、膨大な犠牲を払って大きな効用を得たものに、東海道線の丹那トンネルを挙げる。その建設の顛末を吉村昭「闇を裂く道」(文春文庫)に沿って書き進める。
“東海道線は東西をつなぐ大動脈として、日本の発展を促す原動力になった。
” 国府津、沼津間の箱根線は” “国府津駅から上り勾配となって” “酒匂川の谷にそってのぼり、箱根外輪山の外側をまわって、富士山の裾野をくだり沼津に至る。1,000分の25の勾配は、補助の機関車をつけなければのぼることはできなかった。”
“さらに、豪雨で土砂くずれが起こり、しばしば不通になった。”
その対応として
“国府津から小田原、熱海を経て沼津へと線路を敷設する方法が考えられた。箱根から天城にかけて続いている山脈を貫く長いトンネルが実現すれば、線路は平たんで距離は大幅に短縮され、列車のスピードも飛躍的に増すことは明らかだった。”
“鉄道院総裁に仙谷貢が任ぜられ、工事計画が推し進められることになった。”
“基本的な問題は、トンネルを単線型二本にするか、複線型にするかであった。”
“ 小さい単線型トンネルは、掘るのに容易であった。そのため、日本のトンネルのほとんどが単線型であった。”
“ 複線型はトンネル内で事故があっても、復旧作業が容易である。機関車からトンネル内で吐き出される煙もかなり薄められるはずだった。”
“ 地質学者は、トンネルを掘る予定地の地質は硬い火山岩としたので、複線型に決定した。”
“大正7年3月21日朝、熱海町の坑口の前で起工式が催された。”
“ 坑夫は穿孔作業をつづけ、うがたれた18個の孔にダイナマイトの筒が押し込まれ、装填がすべて終わると、火薬係がカンテラの灯ですべての導火線に点火し、走って切羽をはなれた。”
“ 発破の音がとどろき、飛散した岩粉で坑内は白くけむった。それがうすらぐと、退避していた作業員たちが切羽に近づき、崩落したずりをトロッコに積み、坑口に向かった。”
“ 後方では、導坑を掘りひろげる作業が行われていた。”
“熱海口からの導坑工事は順調に進んでいたが、三島口は思いがけぬ湧水に工事の進行が滞りがちになった。”
“ 発破をかけた後、湧水が激しくなり、掘削は中止された。水が坑夫たちの腰までつかる。それを坑外に排出するのが先決になった。”
“ 坑口の外に詰めていた当直の二人が、異様な音を耳にし、詰所の建物が揺れるのを感じた。坑道の奥から押し寄せてくるすさまじい土埃の風は坑道の奥で崩壊が起こったことをしめしていた。”
“男がよろめきながら坑口からでてくると前のめりに倒れた。「山が抜けた」”
“先へ進んでいた坑夫が「いたぞぉ」と叫んだ。ふりかざしたカンテラの灯に、一人の男の姿が浮かび上がった。その体は天井の板の間に押し込んだようにはさまって、顔が天井の壁に仰向きになって密着していた。その遺体の足を引いたが、身体がはさまって動かない。板をゆるめて強く足を引くと、遺体がしぶきをあげて水の上に墜ちた。その顔を見て、息をのんだ。鼻がけずられたように欠け、骨が露出している。”
“ 男は急激に上昇する水からのがれるために天井にあがり、板の間に身体を突き入れた。さらに水があがってきたので、男は、天井の壁に顔を押し付けて、必死に呼吸をし、その激しい動きで鼻が欠けたにちがいなかった。男の苦しみがいかに激しかったかを知った。”
“ついで、二つの遺体を、更に三体を発見したが、いずれも、天井に顔を押しつけていて鼻と口がいちじるしく損なわれていた。”
“ 何気なく上を見上げた一人が声をあげた。板の上の金属枠の間に、一人入るのも困難な狭い空間に、三人が入り込んでいた。その金属枠を外して三人の遺体を降ろすことができた。”
“大正10年4月に16名の犠牲者を出した熱海口の崩落事故についで” “16名の死者を出した三島口の崩落個所では、多量の土砂が水とともに流出し、この付近は、これ以上トンネルを掘り進める状態ではなかった。”
“湧水は激しかった。カンテラで導火線に点火しようとしても火が消え、マッチも湿って使えない。”
“ 水圧を計ると、消防ポンプのホースから放たれる水の力の10倍だった。”
“セメントで抑えようとして注入しようとしても、すさまじい水圧ではじき返されて入れることなど出来る筈もなかった。”
“丹那トンネルの工事が、世界でも珍しいほどの難工事であることは外国にも伝えられた。”
“ 三島口の坑道内では、2年前に起こった大出水の水が減るのに1年もかかり、その間、工事は中止されていた。”
“ 坑道内の湧水を排除しながら掘り進めるのに、空気掘削の方法を採用した。切羽近くに頑丈な門を作りその奥の坑道に圧搾空気を入れて気圧を高める。坑夫たちは高圧空気に体をならしてから坑内に入って” 作業に就いた。
“半鐘の音が続いている。”
“ 彼らの眼には殺気に似た光が浮かんでいた。”
“ 古い時代から豊かな水に恵まれてきた。その水を飲料とし、稲を実らせ、ワサビを栽培して不自由のない生活をつづけてきた。”
“ 大正13年以来水源はほとんど涸れ、水を失って耕作は不可能になり、生活は根底から破壊されている。”
“鉄道省では丹那盆地の地区に見舞金を支給し、田から畠への地目変換費を支払った。”
“坑夫長が体を切羽に近づけ、岩肌に耳を押し付けた。”
“ 両口の先端から先端への距離が接近していたので、発破の音が聞こえたことで、残りがわずかになったことが感じられ、関係者の喜びは大きかった。”
“探りノミの音が徐々に大きくなってきた。岩盤のその個所が盛り上がると突然、細いノミの先端が突き出た。”
“ 坑夫たちの間から、万歳という叫びが挙がったが、嗚咽しているため、ただ息を吐いているような声だった。”
“切羽の方向から炸裂音がとどろき、突風が走ってきた。”
“ 石川たちは硝煙の薄らぐのを待って切羽に急いだ。岩壁に穴が開き、熱海口のカンテラの光が見える。その穴から「おめでとう」と叫びながら熱海口詰所の有馬主任がくぐりぬけてきて、石川と握手した。”
丹那トンネルは、延長7804m、予定された7年の工期が、実際には15年11か月10日を要した。当初の熱海線の予算額は2,400万円。このうちトンネル工事費は770万円だったが、実際にトンネルを完成するのに、2,500万円を要した。
“トンネル工事でしぼりとられた水の量は芦ノ湖の貯水量の3倍に達していた”
その間に幾度も発生した事故で、併せて67名の殉職者を出した。
“トンネル完成に沸く中で、水を失った農民たちの不満は、117万円の補償金を得て、ようやく沈静化していた。”
“盆地の低下した地下水の水位が上昇する筈もなく、水は涸れたままであった。”
“昭和9年11月30日午後10時、東京駅から第1号列車が出発した。”
“列車は、国府津、小田原を過ぎて熱海駅に近づくと、花火が夜空を彩り、駅の周辺にむらがる町民たちが提灯をあげて万歳を叫び、乗客たちは車窓に顔を寄せて、揺れる提灯の光がすぎるのを見つめていた。”
“列車はトンネルの坑口に迫った。そこには熱海建設事務所の所員と残っている作業員たちの提灯が揺れていた。かれらは嗚咽するばかりで、ただ提灯を上下しているだけであった。”
“三島口を出た線路際でも工事関係者が提灯とカンテラを上下させていた。かれらは、肩を波打たせて涙を流し、尾燈が遠ざかって消えても、その場に身じろぎもせず立っていた。”
吉村昭のこの作品は、初版から8年、初刷のままである。人気がない理由はタイトルにある。凝り過ぎて意味不明だ。書店で読者は食指が動かないだろう。初出が新聞の連載だったので、重複した描写が多く冗長でもある。折角の力作だけに残念である。
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