建設物価調査会

様々な経験を通し、私自身の“現在地”を 見つめる

株式会社 安藤・間
建設本部 土木技術統括部 技術第二部 構造物グループ
ルイサ サンタ スピティア(Luisa Santa Spitia.)

ルイサ サンタ スピティアさん

 公益社団法人土木学会国際センターでは、日本で学ぶ外国人留学生や若手外国人技術者の支援を行っています。今回は、(株)安藤・間でご活躍されているルイサ サンタ スピティアさんをご紹介いただきました。子どもの頃の日本のイメージ、学生時代の経験、将来への思いなど綴っていただきました。



はじめに

 私は、コロンビアの首都ボゴタから北に50㎞のところにある小さな町シパキラで生まれました。私の故郷はコロンビアでも有名で、3000万年前の第三紀に塩のドームが形成され、ヒスパニック時代以前から利用されてきた塩の大聖堂があります。

最初の入植者は鉱山で塩を採掘し、塩を通貨としてさまざまな物資を手に入れておりました。その塩の採掘は現在も続いています。旧鉱山の坑道は現在、大聖堂として利用されており、年間約70万人の人々が訪れています。

塩の大聖堂


シパキラは観光地でありながら、現在13万人ほどの人口を抱える静かな町です。人口の多くは、輸出用の花の栽培、農業、畜産業に従事しています。アンデス山脈に位置し、平均標高は2,650m、最高地点では3,000m に達します。そのため、気候は12℃前後と寒冷です。コロンビアは熱帯に位置する国ですが、私の故郷の気候は寒くて雨が多いと聞くと、多くの日本人に驚かれます。  

 人生の最初の21年間をシパキラで過ごしました。私は町外れの家で育ったので、兄弟と一緒に近所の畑で遊ぶことができました。母は朝食にアレパを作り、時には昼食や夕食にもアレパを作ってくれました。アレパは、トウモロコシを使った代表的な食べ物です。トウモロコシを茹で、挽き、練り、特徴的な形に成型して焼きます。アレパには、地域によってさまざまな種類があり、トウモロコシの種類、大きさ、太さ、添え物もさまざまです。

母がよく作ってくれたのは、中にチーズを入れたもので、いつもコロンビアの主食であるコーヒーと一緒に食べていました。シパキラではコーヒーは栽培されていませんが、300㎞離れた母の故郷キンジオでは、世界一のコーヒーが栽培されているのです。母である彼女は幼い頃にコーヒーを摘んでおり、私たち兄弟はそのコーヒーを飲んで育ち、今も毎日コーヒーを飲んでいます。

アレパ




日本へのアプローチ

 多くの外国人がそうであるように、私の日本への最初のアプローチは、日本のテレビ番組です。印象に残っているのは、全国ネットで放送されていたNHK の番組です。7 ~ 8 歳の頃楽しく見ていた教育番組です。『なんなんなあに』、『大きくなる子』、『できるかな』などは、90年代のコロンビアで育った子供たちには懐かしい番組です。私と同年代の日本人はこれらの番組を見ていなかったのに、逆に50歳以上の日本人が懐かしく思い出してくれるのは不思議なことです。

しかし、日本のアニメといえば、80年代に日本アニメーションが制作した『グリム名作劇場』が1 位であることは、コロンビア人なら誰もが認めるところです。私が今日まで覚えている限り、毎週日曜日の朝に全国ネットのテレビで放送されていました。コロンビア人なら誰でも、この番組のイントロの歌をおぼろげに日本語で口ずさむことができますが、このアニメが日本では全く人気がなかったのには少し寂しさを感じます。

 父はガラス工場で働き、母は家で洋服屋をしており、私は2 人の兄と同じように町の中心部にある学校に通っていました。私は90年代のコロンビアの厳しい現実からやや離れて暮らしていました。ニュースでは、爆弾や何千人もの負傷者、誘拐された人々、最果ての地での軍とゲリラの銃撃戦が映し出され、これが普通だと思って育ってきました。残念なことに数十年経った今でも、私の国ではそれが現実なのです。

ある日、父の通勤途中のバスが元ゲリラのM-19にハイジャックされました。数時間、バスの乗客が拘束されましたが、悲劇的な結末を迎えることなく、解放されました。被害者の中には自分の名前が載っている新聞を持っている人もいます。コロンビアの長年の暴力が、この出来事を普通のことだと思わせているのは悲しいことです。

 一方、14,000㎞離れた日本では、80年代、90年代にハイテク製品の輸出大国となりつつありました。日本を映すテレビの映像やニュースを見ると、知的で勤勉な人たちが日本にはたくさんいて、ロボットまで作れる最先端の技術を持っている国だというイメージを抱きました。私にとって日本は、何でも可能な魔法の国のようなもので、行ってみたいと夢見ながらも、その可能性を微塵も考えられない場所でした。

 若い頃は自分の将来を考えると不安だったのを覚えています。親が大学の学費が大変だと言っていたのを覚えています。親が私や兄弟に高等教育を受けさせるために最善を尽くしてくれることは分かっていましたが、それが叶わない可能性が高いことも理解していました。


大学生活の思い出

 歩道橋と信号機が1 つずつしかない村のインフラを整備するために、土木工学を学びたいと、無邪気に憧れていたのかもしれません。学校の前にあった橋が、理由を知る由もなくある日突然崩れました。橋を再構築するためにエンジニアになりたいとずっと思っていました。コロンビアの首都ボゴタに行ったときには、大きな橋やたくさんの建物を見て驚いたのを覚えています。

 幸い、私はボゴタにあるコロンビア国立大学の土木工学科に合格しました。この大学はコロンビアで最も権威のある大学で、公的資金で運営されていたため、学費がほとんどかからずに学士の学位取得という私の夢を実現することができました。ごく一部の学生しか合格できない大学でしたので、合格の知らせを受けたときはとても嬉しかったのを覚えています。私の学校からは私一人しか受からなかったので、信じられない思いでした。今日、別の視点から見ると、それはコロンビアの現実の悲しい反映でもあります。幸運にも勉強できる人は、ごく僅かであるように思われるからです。

 シパキラから大学までは2 時間もかかるのですが、5 年間通学してなんとか土木学士として卒業することができました。大学で勉強していたある日、ある人が「構造物の優れたところを学びたいなら、日本語を学んで日本へ留学したほうがいい」と言ったのを覚えています。このアイデアはとても素晴らしいものだと思いましたが、その時は可能な事だとは思っておりませんでした。しかし、このことは私の心の片隅に留めておきました。

就職そして日本へ

 その後、リスクコンサルタント会社に就職した私は、洪水で人命が失われ、災害援助もままならない村々を訪ねました。病院も水浸しで営業できず、お通夜は船で行わなければならない状態でした。しかし、そのような状況でも、JICA が寄贈した図書館は壊れることはありませんでした。それを見て、私は日本への憧れとともに、自分の国を助けてくれたことへの感謝の気持ちを胸に納めました。

 そこで数年働いている中で、プロとして成長するためにはより専門的な勉強をしなければならないことに気づきました。学部と同じ大学で修士課程に進むことも考えましたが、大学院には国の補助金が出ないので、修士課程に進むだけの資金がありませんでした。そこで、母国とは別の国の政府が勉強を続ける機会を与えてくれるかもしれないと考え、メキシコ国立自治大学の地盤工学の修士課程に入学することを決めました。この年、土木工学の修士課程に入学したコロンビア人は5 人だけでした。改めて、とても幸せなことだと思いました。

 その後、海外に住みながら勉強することが可能だと知り、日本に留学する夢を思い出しました。地盤工学の博士課程に応募し、2 回不合格となりましたが、3 回目の2014年に文部科学省の奨学金の支援を受けて東京大学にようやく合格することができました。信じられないことに、コロンビア人の奨学金は年間4 人分しかないという難関を再び突破することができたのです。



日本企業への就職

 卒業を控えた2017年の数か月、多くの同級生と同じように日本で生活を続けるというシナリオを夢見ていました。日本語が話せない人にはチャンスはほとんどないものでしたが、今まで不可能に近いチャンスを得てきた自分の運を信じて、いくつかの日本企業に履歴書を提出し、面接を受けました。幸いなことに、2017年10月から株式会社安藤・間に勤務することが決まりました。

 最初の2 年間は、国際事業本部に配属されました。そこで私は、東南アジアのプロジェクトで、建設現場を本社から支援するエンジニアとして働きました。橋梁やトンネルなど、さまざまなプロジェクトで仮設構造物の計算や入札用技術資料の作成を担当しました。地盤の圧密管理をしながら、工事の進捗を管理する作業もしました。

また、新たに工程管理するプログラムの導入も担当しました。この仕事の中で、ラオス、インドネシア、カンボジア、ミャンマー、タイ、ネパール、スリランカの建設現場に出張する機会を得ました。これらの国への訪問は、私に新しい豊かな経験をさせただけでなく、母国や日本政府の援助だけが来ていた災害援助の「忘れられた地域」を思い出させ、ノスタルジックな気持ちになりました。ある意味、自分の国ではありませんが、自分が役に立てる立場になっていることに喜びを感じました。



ロールモデルに向けて

 その後、国内の土木技術部門に異動になり、現在に至っています。ここでは、海外出張がなくなり、日本の現実に関わることになりました。なんとなく外国人優遇バブルの中で生きてきた私は、日本で働き、暮らすということがどういうことなのか、真に向き合わなければならなくなりました。特に日本語がまだあまり上手でないことと、日本の習慣や文化の中で自分なりに動けていないことが、正直なところ大変なことでした。

 私は構造物を主に支援するグループに所属しているので、全国の建設現場をサポートするほか、最近では研究開発プロジェクトも担当しています。建設現場の支援では、土留掘削時の仮設構造物の計算、地下水の流動解析、コンクリートの温度変化応力の計算などを担当しています。

 研究開発の面では、セメント改良土を用いた土留の開発プロジェクトに取り組んでいます。シートパイルや親杭を使った一般的な掘削に代わる、経済性・工程の面でより実現性の高い選択肢となるべく開発をすすめています。このプロジェクトの開発のために、私は昨年、さまざまな土とセメントの組み合わせに対する応力試験や、土とセメントと補強材の相互作用試験を何度も実施しました。また、実験室で土留を模擬したテストも行う予定です。これは確かに、私にとってエキサイティングなテーマです。この新しい土留めの方法が成功し、建設現場の生産性向上に何らかの形で貢献できる可能性があると思うと、とても楽しみです。

 今思えば、こんなところに住んで、こんな仕事をしているなんて、子どものころは想像もしていませんでした。あの時、それがわかっていたら、自分の夢を誇りに思っていたはずです。今後の予定については、正直なところ、あまり明確ではありません。私が人生で学んだことは、訪れたチャンスを受け入れ、それを最大限に活用することです。

 私の夢はロールモデルになることです。子供の頃に見てもらいたい女性エンジニア像になりたいと思っています。これからも、自分の専門分野で活躍し、もしかしたらまだ経験していない新しい土木の分野も経験してみたいと思っています。そして、自分を信じることが必要な女の子や、日本でのより良い未来を求める若い外国人達にインスピレーションを与えることができればと願っています。




おわりに

 正直なところ、国や両親・兄弟と離れるのはつらいことです。彼らが私のいない人生を歩み、私が彼らから離れて人生と子育てをしなければならないことが苦痛でなりません。私は、自分の国の暗い未来から逃れ、より良い未来に貢献できていないことを、ある意味痛感しています。

 適応するのはとても大変でしたが(今も)、おそらく私が想像していた以上に、日本は私の居場所となっています。いつまで? どうでしょう。一時的であれ、永久的であれ、私はただ、ここでも地球の裏側でも、何らかの役に立ちたいと願っているのです。



※ 土木学会国際センターの詳細は、以下のHP をご覧ください。
 https://committees.jsce.or.jp/kokusai/


建設物価2023年4月号